トイレの洗剤が売り切れる前に、薬局へ行ってきます
今般のウィルス騒動ですが、文字通り「猛威」を振るっております。個人的には、病原体としての恐ろしさよりも、そのパラノイア的な「アイツに触ると、コロナが感染る」妄想といいますか、精神的な「脅威」としてのウィルスとしての機能の恐ろしさに目がいってしまいます。そんな中、度々当ブログでも取り上げている、"糞口経路"というキーワードが、再度注目を浴びているようです。
There could be a fecal-oral route for coronavirus after live virus particles were found in stool specimens, according to Chinese researchers https://t.co/UgD3ohUomv
— Bloomberg (@business) February 22, 2020
2/3付『体の奥底に潜り込んでいく』というポストの中で、筆者はこのように申し上げました。
今般の新型コロナウィルスは、体の表層に近い粘膜ではなく、意外と体の奥底に潜り込んでいくということなのでしょう。おそらく、体の表層に症状が出る頃には、期間部位が既に重篤な範囲にわたって感染しており、免疫機能が犯された結果として、急性の呼吸器症候群が表出するのでしょう。個人的な憶測の域を出ませんが、「長期戦を覚悟すべき」なのではないでしょうか。
トンデモ論にご注意
興味半分で調べた嘘くさい情報なので、信憑性は定かではありませんが、「"例の"クルーズ船の運営会社は、過去に廃棄物の処理を適正に行なっていなかったとして、行政より再三に渡って注意を受けていたにも拘らず、迅速な対応を怠った」だとか、「IR事業を積極的に進める政府が、"カジノ・クルーズ船"を受け入れないわけにはいけない」だとか、「当該船は、ACE2酵素を他人種に比べ多く持つ特定の遺伝子保持群をターゲットにしてつくられた生物兵器の実験場および、拡散させるための濃縮機」であっただとか、トンデモ論を過信してはなりませんが、この状況下においては、信じるに値するのではないかと、逆にいぶかしく思ってしまう次第であります。
我々は、「ポスト・トゥルース」の時代に生きております。もし、仮に「船内の不衛生な環境、ひいては『ウィルスに感染した食事が原因』で船内エンデミックを起こした」という妄想が真実だとしても、仮にそれを完璧に証明する根拠があったとしても、それを「信じる」人がいなければ、それは"真実"たり得ません。どんなエビデンスを並べようが、一部の影響力を持った方々の美辞麗句には勝てません。
もはや、他人は他人。わかってくれる人が少しでも周りにいるのであれば、それでいいや。そのように考えること、他人を信じることがどれだけ儚いことであるかということを、常に念頭に置いて行動することが、「身を守る」ひいては「身内を守る」上で、最善の方法なのではないか、そのように考える次第です。
儲かっている会社のトイレはキレイ
商売人の世界では、当たり前のこととして認知されていますが、「儲かっている会社のトイレはキレイ」であります。(素手で便器を磨くことが好きな会社もあるようですが、それは正直、気が違っていますよね。)なぜ、トイレがキレイだと儲かるのかという因果関係は、はっきり説明できませんが、逆に「トイレの汚い会社は、儲かっていない」と言い換えれば、まだ、説得力を持つかもしれません。「当たり前のことを当たり前にやる」ということが、恐らく、行動力や完遂力といった商売上求められる要素に繋がっているのでしょうか。
私の好きなテレビドラマに、『銀二貫』という作品があります。具体的なストーリーは省きますが、あらましとしては下記の通りです。
舞台は商人の町・大坂天満。主人公の松吉は仇討ちで父を亡くし、自分もあわや討たれるかというところを、偶然居合わせた寒天問屋・井川屋の主人・和助に銀二貫で救われた元武士の息子である。生きるため井川屋の丁稚となった松吉だが、武士を捨て、商人の道を歩むことに心が揺れていた…。大火で焼けた天満宮再建のためにかき集めた大切な銀二貫で松吉を救った主人の和助や、信心深いが故に松吉に辛くあたる番頭の善次郎から、商人としての厳しい修行と躾を受ける。そして、小さな寒天問屋の暖簾をめぐる数々の事件を乗り越え、松吉は商人の道をゆっくり歩みながら成長していく。得意先の料理屋の娘・真帆との淡い恋も絡め、関西風情たっぷりの空気感の中で、涙あり笑いあり恋愛ありの人情時代劇を描く!
この作品の中で、商人の心構えとして、下記の3つが度々劇中に登場します。
- 始末
- 才覚
- 神信心
自分の少ない海外経験の中で、切に思うのは、「トイレ環境は、その土地の住人の顔を表す」ということです。かなり控えめな表現にしましたが、端的に申せば、「自分の落とした"モノ"が、本来あるべきところにないのに、それを『そのままでいいや、誰かが掃除してくれるからいいや』と言って、見過ごすような人間の集まりはクソ」だと思います。要は、始末が悪い。
卑近な例で恐縮ですが、港区の高級ホテルで用を足して、その足で東京入管に向かい、そこの"それ"を使ってみてください。「トイレットペーパーを盗まないでください」という張り紙を目の当たりにした時、「世界はこれほどまでに高低差があるんだな」ということを思い知らされます。
閑話休題。商人の心構えの話でした。個人的な理解としては、「自分が言ったこと、やったことに対する責任と完遂が始末」であり、「自分が信ずる道を熱意を持って進み、修正し、自分のものにすることが才覚」であると捉えております。最後の「神信心」は、「始末も才覚をも超越した先に控える"なにか"を信じるこころ」ではないか、そのように考えています。
トイレの洗剤が売り切れる前に、薬局へ行ってきます。
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大きな矛盾と儲け
最近、商売を通して殊に強く感じるのは、「あー、なんかこの人、やっぱ本気出してないな」とか、「上っ面だけ良いけど、信用に足らない人だな」といったネガティブな感情です。右肩上がり時代の"ノリ"を未だに引きずっている方々に、このような感情を抱いてしまいます。つい先日も、「こんな作業(フレコンの中から、良いスクラップを選別する)やってると、自分がコジキみたいだね」と大きな声で自分のことを卑下しているかのように振舞っている同業者がおりました。その"心の声"を聞いて、良くも悪くも感情の起伏は一切なく、ただただ鮮明に、「矛盾」というワードが脳裏に現れました。それと同時に、「この人、羽振りはいいけど、本当は儲かっていないのだろうな」と思ってしまいました。
クズ屋が汚い商売なのか、そうでないのか、職業に貴賎はないのか、そんなことはよくわかりませんが、"こんな作業"だと思われ、他人がやりたがらないこと、他人が気づかないことこそ、商売の真髄といいますか、多くの利益を生んでくれる源泉であると信じています。確かに、これまでの"売り手コントン市場"の中で、あーでもない、こーでもないとのたうち回りながら、右から左へクズを動かしていれば、自然とゲンナマが湧いてきたのでしょうが、今はそんな状況にありません。トイレ掃除など、本来であれば、誰もやりたくはありません。ただ、そういった瞬間的な"気分"で、嫌なことから目を背け、やらず、逃げる、そのような人々を尻目に、コツコツと小さなことを積み上げ、信用を勝ち取り、取り巻きを増やし、良い影響を内外に与え、同胞を増やし、利益を獲得していった方々が「成功」してきた、ただそれだけのことなのかもしれません。商売というものは。