もう、決まったことだから。よろしく!

前回の投稿から、既に数ヶ月。時が矢の如く、コメカミの辺りをかすめながらも、痛いところにバッシバッシと刺さって参ります。いつか、ダメになるんじゃなかろうか、いつかこの矢に殺られるんじゃなかろうか、もしかしたら、仕事がなくなって方々を彷徨う運命になるのではないか。色んな情報が、頭の中に入っては消え、グツグツと煮えたぎり、ふわあっと消えていきます。この状況は、なんと表すべきでしょう。混沌とでも言えば良いのでしょうが、そうは言っても、実際のところはそこまでカオスな様相は呈していないとも思います。

2017年12月17日、私はこのブログの中で、高らかにこう叫びました。

勿論、大義名分として、環境規制に引っかかるから品位の低いスクラップを輸入するのはやめましょうといったハナシになるのでしょうが、実際には既定路線(大綱)を真っ直ぐ突き進むと、産業構造の転換やら、生産技術の飛躍やら、製品品質の向上などの必達目標が掲げられていて、それらを達成していくために、もう少し品位の高いもの、良いものを手に入れて、どうにかこうにか使いこなす術を身につけていきましょうねといった、至極自然な流れの一環として、現在のような変革のタイミングがやってきたのだと思います。

これは、習近平の視点で申し上げれば、「もう、決まったことだから。よろしく!」ということでしかない。中国製造2025を目先の布石とし、中長期的な目標として2049年までには、世界のナンバーワンになるという政策を掲げている。注力すべき対象は、ものづくりであって、ゴミの再生ではない。

巷では、未だに「雑品がどうのこうの」だとか、「どこぞの国がどうのこうの」などと話し合われています。恐らくですが、習近平の頭の中では、「お前ら、まだそんなことで消耗してるの?」ぐらいの小言がエコーしていることでしょう。

シモの世話を断られていちばん困るのは、そのサービスをのほほんと当たり前に享受できていた人間と、その周りに介在していた人間

仮に、こういった状況に陥ったら、どのように考え、行動するだろう?「長らく入院していたおじいちゃんの介護サービスが、明日から一切受けられない。」

恐らく、当然のごとく、家族は困惑するだろう。誰が面倒みるのか、いつ再開されるのか、違うところで同じサービスを受けたら、いくらぐらい費用がかかるのだろうか。いや、待てよ。もしかしたら、うちは長くここのサービスを使っているのだから、特別な配慮があって、うちだけすぐに再開してくれるかもしれない。ケースワーカーのあの人にお願いしてみようか…。

これが人情というものだろう。この発想は、現在の雑品を取り巻く状況に通ずるものがあると考えている。

重ね重ね申し上げるが、「もう、決まったことだから!」どうあがいても、崇高な"確約済み理念"がそこにある限り、我々の純潔な私利私欲に勝ち目はないのである。