踊り場からの脱却

これまで、いろんな思惑、いろんな憶測、いろんな経験則で「中国への雑品輸出が止まる」というハナシが、そこかしこで語られてきました。

「来年中は大丈夫みたいだよ。」

「いや、そんなことはなくて、実際に停止するのは、もっと近い将来である。みなさん、覚悟しておいた方がいいですよ。」

「中国という国は、人治主義ゆえ、いつなんどき規制がかけられるのか、まったくわからない。わかっているのは、いずれ輸出できなくなるということ。」

結論、誰も今後の先行きが見えていないということですね。そして、“ハナシ”のほとんどが、どこからともなく湧いてきた二次情報であるということを忘れてはなりません。実際に、習近平(シージンピン)と膝を突き合わせて、今後のスクラップの扱われ方についてハナシをしたことのある人間が、この日本にどれだけ存在するのでしょうか。


私は先日、中国のとある地方を訪れました。そこで、衝撃を受けたのは、官公庁や工場で暖房が使えないという事実。(厳密には、石炭を熱源にした暖房設備が対象で、いわゆるエアコンを使った暖房は可能。)

聞いた話によると、「(政府が)御触れを出したから、みんな大人しく従えよなー」的な生半可な施策ではなく、単純に「お前ら、今日から暖房設備使っちゃダメ。工場の裏手にある石炭ボイラー、もう使えないように壊しておいたからな」的な手法で粛々と禁止措置がとられた模様です。

参考: 『1000万人が凍える中国「暖房変換政策」の失態』

この様を目の当たりにして思ったのは、(良い意味で)「中国ヤバい」でした。
そして、日本に帰国後思ったのは、(悪い意味で)「日本ヤバい」でした。

中国の“ヤバさ”というのは、一見荒々しい無謀な施策でありながらも、それが実際に将来のための荒療治であるということ。多少の痛みがあろうとも、今後必ず達成されるべき方向には、着実に進んでいる。

一方で、日本の“ヤバさ”というのは、相撲協会の内輪揉めのハナシにせよ、大物政治家の特定利権との癒着にせよ、本当にどうでもよいことを、どうでもよくないことに昇華させて、どうでもでもよいことに自分たちの神経をすり減らすこと、すり減らされることに快感を見出してしまう、マゾヒスティックなところにあると思います。不毛な議論の末に、無能な人間がヤンヤヤンヤ囃し立てるうちにほとぼりが冷め、「なかったこと」になってしまいます。進歩はないと考えています。

冒頭のハナシにも繋がりますが、今の中国は、燦々と照りつける国家運営の大綱のもと、粛々と次のステージへ駆け上がるための準備をしているわけです。

勿論、大義名分として、環境規制に引っかかるから品位の低いスクラップを輸入するのはやめましょうといったハナシになるのでしょうが、実際には既定路線(大綱)を真っ直ぐ突き進むと、産業構造の転換やら、生産技術の飛躍やら、製品品質の向上などの必達目標が掲げられていて、それらを達成していくために、もう少し品位の高いもの、良いものを手に入れて、どうにかこうにか使いこなす術を身につけていきましょうねといった、至極自然な流れの一環として、現在のような変革のタイミングがやってきたのだと思います。

いつなんどき起こるかわからない変化の波におののくよりも、そう“なる”と既定された事項に対して、いかにして対峙してゆくのかということを明確にすることの方が、よっぽど大事ではないでしょうか(自己に対する戒めを込め)。